板谷聡子(いたや・さとこ)

現場が求める無線ネットワークは現場からしか見えてこない――板谷聡子(国立研究開発法人・情報通信研究機構(NICT)・ネットワーク研究所 ワイヤレスネットワーク研究センター)
ODAIBA IX Core/Industrial Transformation(IX)Leaders
産業技術を変革するリーダーたち(No.7)

工場やさまざまな社会の現場では、無線ネットワークをどのように使い、その中で安心して円滑な作業ができるためにどのような解決策が求められているのか。情報通信研究機構(NICT) ネットワーク研究所のワイヤレスネットワーク研究センターでワイヤレス...

2025/03/04

Posted on 2025/03/04

工場やさまざまな社会の現場では、無線ネットワークをどのように使い、その中で安心して円滑な作業ができるためにどのような解決策が求められているのか。情報通信研究機構(NICT) ネットワーク研究所のワイヤレスネットワーク研究センターでワイヤレスシステムを研究する研究マネージャーの板谷聡子氏に、無線ネットワークが現場の仕事を支えるためのポイントを尋ねた。

複雑系の物理学から無線を「視る」

―NICTのワイヤレスネットワーク研究センターで研究している板谷さんですが、学生時代から無線に関わっていたのですか。

板谷:大学では数理物理学が専門で、複雑系の物理学の研究をしていました。幅広い分野に対応できる研究で、株価の変動から気象現象、流体、化学反応などさまざまなところに応用できます。無線も対象の一分野ではありました。修士課程を修了し、セイコーエプソンに入社したときはXMLの研究していたくらいですから、無線とはしばらく関係なく過ごしていました。

板谷聡子(いたや・さとこ)

就職して研究を生業にしてみると、博士号を取った方が良いと考えるようになりました。そこで1年で退職して博士課程に戻り、理学博士号を取得した後は、ATR(国際電気通信基礎技術研究所)で生物学的な要素をコミュニケーションに応用したアプリケーションの研究に携わることになりました。ところが3日ほどしたところで、IEEE802.11のハンドブックを渡され、無線の研究に関わることになったのです。その後、NECの研究所に移り、2014年からNICTで研究をすることになりました。

―現在の無線との関わりはどのようなものですか。

板谷:無線ネットワークを利用する現場で起こっていることは、子機と親機をメーカーや研究所に持って返ってはすべてを再現することができません。機器を切り出すことがそもそも間違いで、無線ネットワークは現場を含めた全体像として捉える必要があります。

それが、IoT化が進む製造現場で作業に携わる方々が安心して円滑に作業ができるようにするためのFlexible Factory Project(FFPJ)の発端です。NICTと複数のメーカー、サービス事業者が連携したプロジェクトです。私はFFPJで「来てくれませんか」と言われれば、現場に行き、メーカーの皆さんの現場で課題の解決を図ります。現場の無線ネットワークは複雑系なので、単一の最適化はできません。全体が一体になって初めて起こる問題であり、無線がシステムに溶け込んだときに起こるものです。ですから、ベストは目指さず、ベターを探ります。環境のすべては観測できませんから、取れるデータを使って、最悪の状態から許容できる状態にできるかを考えます。通信の学会で取り組みを発表したときは、視点が物理学だと驚かれました。

板谷聡子(いたや・さとこ)

工場の無線ネットワークをより良くするために

―なぜ工場の無線ネットワークを対象にしたのでしょうか

板谷:ちょうどNICTに移った2014年頃が有線から無線への切り替わりの時期だったのです。そこで無線かなと考えました。現場の無線ネットワークを研究するには、多くの人に協力していただく必要があります。そこで、製造業の方々にとって最も重要な現場、すなわち「工場」を最初の対象にしました。

そこからずっと工場の無線ネットワークについて研究していますが、私はそもそも無線を勧めているわけではないんです。有線でできるところは、有線でいいわけです。どうしても無線でやる必要があるところ、無線にメリットがあるところだけ無線を使えば良いという考え方です。無線機器のベンダーなどが工場に来ると、「何でもできます」と言われるようです。しかし現場のニーズは多様で、ニーズに気づいていなかったりうまく掘り出されていなかったりします。一緒に考えることが必要なのです。「ベンダーが来ても10分で話が終わるけれど、板谷さんが来ると半日は話が続く、板谷さんが動くだけで意味が出てくる」と言われたことが象徴しているのかもしれません。妙な評価のされ方をしているのかもしれませんが(笑)。

―FFPJの活動は、どのようなメンバーが関わっているのですか

板谷:私がビジョンを作り、NICTの研究員に加えて20社以上のメーカー研究員の方々のボランティアで成り立っているプロジェクトです。全員持ち出しでやってもらっています。現場を選んで見に行っているというよりも、協力してくださっているメーカーの皆さんと一緒に活動しているイメージです。

―FFPJにNICTが関わっている意味を教えて下さい。

板谷:私が国研にいるメリットはあると考えています。例えばNTTドコモやNECが工場の無線ネットワークの研究をしていても、特定の色がついてしまいます。NICTの私がやっているからFFPJはボランティアで成立するし、ボランディアを出したメーカー側も国研に協力しているという価値を得られます。

現場で必要だから無線が使われているという視点

―工場ではどんなところに着目していますか。

板谷:工場には1週間、2週間と張り付いています。どうも、興味あるところがマニアックすぎるようです。あるメーカーの工場ではネジの分類器を空き缶で作ったりしているのを見て、感動しました。切削加工機に1週間ほど張り付いていたときは、体に悪いからやめなさいと言われたこともあります。

私は職人さんが好きみたいです。職人さんのこだわりのポイントなどを聞いているとワクワクしてきます。トヨタが初めに協力してくださったときに、「工場って遊園地みたいですね」と感想を漏らしたことがありましたが、トヨタの偉い方がそれに共感してくださり、どれだけ愛情を持って工場を作ってきたかの話に花が咲きました。なので長くなるんです(笑)。

―無線ネットワークについてはどんな話がでるのでしょうか。

板谷:私からは、「有線ケーブルでいいんじゃないですか? 電源の線があるのに通信だけ無線にする必要があるんですか?」と問いかけました。そうしたら、電源はどこからとっても100Vだけれど、通信は届けたいところに必要な情報を届けなければならないから、無線が必要なのだと答えをもらいました。無線のニーズは現場に確かにあるのですが、それは私たちが考えているニーズとは異なるのです。速いとか、新しいから使われるわけではなく、安全性や衛生面など、工場で無線が必要だから使われるのです。

現場の無線ネットワークの国研ならではの支え方

―2025年3月には神奈川県横須賀市のYRPで「FSPJ 持ち寄り実験会」を実施します(注1)。

板谷:これは工場を対象にしたFFPJを発展させて、社会を無線通信で支えるためのFlexible Society Project(FSPJ)の取り組みです。YRPはローカル5Gのテストベッドになっていますが、あまり使われていないのが現状です。数年で陳腐化するような製品は、整備したところで5年後、10年後には最先端の実験には使われないわけです。しかし、NICTとしてはメンテナンスやライセンスなどの毎年度の負担をしなければなりません。このままでは良くないというところが原点です。

板谷聡子(いたや・さとこ)

そこで実験会では、NICTがローカル5Gのテストベッドを持っているからこそできる、変わった実験をします。例えば、富士通の古いローカル5Gの基地局とNECの最新の基地局を同じ環境の中で相互運用して試してみたり、900MHz帯の無線通信方式のWi-SUNとIEEE802.11ah(WiFi Halow)を同時に試してそれぞれの良さを体感してみたりといった実験を考えています。

古い規格や機器をNICTがメンテナンスし続けることの意味がここで出てきます。10年、20年と運用する現場では、新旧の機器、異なる無線通信方式、異なるベンダーの製品が入り混じっていますし、歴史的なIEEE802.11bと新しい11axや11beが共存していたりします。それはWi-Fiでもローカル5Gでも同様です。現場ではその必要性から無線ネットワークを導入しているので、新しいものに追随する必要性はないのです。古いものをNICTが使えるようにしておくことで、新しい製品や規格ができたときに共存を検証できる環境を用意します。この実験会はその1つの機会で、様々な現場で無線ネットワークを上手く使うためにできるNICTの貢献だと考えています。

(注1)この「FSPJ 持ち寄り実験会」にはXGMF/ODAIBA IX Coreプロジェクトのメンバーもゲスト参加できます。詳細は事務局までお問い合わせください(TeleGraphic 編集部)

板谷聡子(いたや・さとこ)
板谷聡子(いたや・さとこ)

奈良女子大学を卒業後 、セイコーエプソンに入社。その後、入社1年で退職し、アルバイトをしながら博士号を取得(理学)。2002年から国際電気通信基礎技術研究所(以下、ATR)にて無線アドホックネットワークの研究に従事、上級研究員やグループリーダーを務める。転職し、NEC中央研究所を経て、2014年にNICT入所。製造現場の無線安定化に向けたプロジェクトを牽引している。

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